ニテコサイダーの歴史
1853年:サイダーは黒船来航の際、船員の飲み物として日本に伝来したといわれている
1868年:日本初の炭酸飲料「シャンペン・サイダー」が製造された
1899年:王冠を使用した瓶入り製品が日本で本格的に流通し始める
1902年:仁手古清涼飲料創業、「NITEKOシトロン(現ニテコサイダーの前身)」や「ラムネ」を製造販売する
1931年:仙北郡内の清涼飲料水の3分の2を六郷町のサイダー会社が生産していた
1950年:仁手古清涼飲料合資会社へ組織変更
1999年:六郷まちづくり(株)が「NITEKOシトロン」の販売事業に着手
2002年:ニテコ名水庵
2003年:「手づくり工房湧子ちゃん」開業、「仁手古サイダー」として全国へ販売へ
2004年:3町村(千畑町、六郷町、仙南村)が合併し秋田県美郷町となる
2011年:ビン規格リニューアル(内容量360ml→300ml)
2019年:六郷まちづくり(株)があきた美郷づくり(株)へ組織統合
2021年:「手づくり工房湧子ちゃん」リニューアル
菅江真澄とニテコ清水
かつて、ニテコ清水を「六郷第一の名水なるべし」と詠った菅江真澄。彼は当時のニテコ清水について記述を残してくれています。菅江真澄は、1754年、三河の国(現在の愛知県)で生まれました。30歳で故郷を出てから1829年で没するまで蝦夷や東北地方を巡り、地域に関する数々の記録や図誌を残しました。菅江真澄の著書「月の出羽路 仙北郡」にはニテコ清水の写生図とともに『「似手古」清水、大町の南に在り、旦り三尺斗(ばかり)なる泉ながら、いかなる旱魃(かんばつ)にも滅ずる事なく、水いやましぬ。六郷第一の名水なるべし・・・』とニテコ清水に関する記述も残っており当時の様子を感じることができます。
榎本釜次郎とニテコ清水
榎本釜次郎という人物をご存じでしょうか。のちに榎本武揚と改名した明治初期の武人です。この榎本とニテコ清水に関するエピソードも残っています。1836年、江戸で生まれた榎本釜次郎は戊辰戦争において旧幕府海軍の副総裁として新選組副長土方歳三とともに函館五稜郭を占拠しました。
「蝦夷共和国」を樹立後、初代総裁に選出された榎本でしたが、明治2年、戦況悪化により降伏を余儀なくされた榎本一行は東京へと護送されることとなりました。その東京への道中で休憩のために立ち寄ったといわれているの場所がニテコ清水だったのです。
東京新辰ノ口の牢獄に投獄された榎本でしたが、出獄した後、才能を買われ、明治18年第一次初代逓信大臣として登用されました。東北視察の際にはふたたびニテコ清水へ立ち寄り昔を思い出したといわれています。
※逓信大臣・・・郵便や通信を管轄する中央官庁の大臣
明治天皇と御膳水
明治14年明治天皇は北海道・東北御巡幸の際、六郷に立ち寄られました。その際、ニテコ清水でお茶を差し上げたことから「御膳水」として知られるようになりました。